2017年2月24日

全く新しい人生を与える方

 

 

さて、週の初めの朝早くに、

よみがえったイエスは、

まずマグダラのマリヤにご自身を現わされた

マルコ16章9節

  

復活されたイエスが、一番最初に現れたのは、12弟子ではなくマグダラのマリヤだった。以前、この女性は7つの悪霊に憑かれて苦しんでいたのだが、キリストが彼女のところに来られ、7つの悪霊を追い出し救ってくださったのだ。

 

ある人は「マグダラのマリヤはいいなあ!」と思うかもしれない。しかし、イエスが彼女に最初に現れたのは、このマリヤを羨ましく思わせるためではなく、悪霊に支配されていたような者でも解放されること、そのような人々を自由にするために、キリストが来られたことを思い起こすためだ。

 

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』(マタイ9:12)と言われた。キリストは7つもの悪霊に憑かれ、完全に支配されていたような者のために来られたのだ。

 

そもそもキリストとは、【油注がれた者】という意味だが、何のために油(聖霊)が注がれるのだろうか? 神がイザヤに、どのようなことばを預けられたか見てみよう。(イザヤ61:1〜3)

 

神である主の霊が、わたしの上にある。
 主はわたしに油をそそぎ

 1)貧しい者に良い知らせを伝えるため
 2)心の傷ついた者をいやすため
 3)捕らわれ人を解放するため
 4)囚人には釈放を告げるため
 5)主の恵みの年を告げるため

(以上の目的で)わたしを遣わされた。

 

イザヤに預けられたことばを読めば読むほど、マグダラのマリヤを始め、病気や悪霊や罪のために苦しんでいる人たちのためにキリストが来られたのは明らかだ。

 

「マグダラのマリヤはいいなあ」と羨ましく思わせるために、彼女は登場したのではない。そうではなく、彼女でも癒されるのであれば、「私でも大丈夫かも..」と思わせるためにキリストは来られたのだ。

 

たとい、あなたの心がどれだけ傷ついていても、「彼女でも癒されたのだから、ひょっとしたら私でも癒してもらえるかも…」と思ってもらうために彼女が登場したのだ。どれほどあなたが何かに捕らわれて閉じ込められていたとしても、「彼女みたいにひどいケースでも助けてもらえたのだから、私も救ってもらえるかも…」と思ってもらうために彼女は登場したのだ。

 

彼女は、良くしてもらう資格も、ふさわしさも全くなかったのに、キリストは癒しと救いを恵んでくださった。同じように、キリストはあなたにも近づいて来られる。

 

7つもの悪霊に憑かれ支配されていたマグダラのマリヤ。彼女から7つの悪霊を追い出されたキリスト。彼女は、キリストに救ってもらったので、キリストを心から慕っていた。だからこそ、ローマ兵が警備している墓にリスクを冒してまで、キリストのからだに香油を塗るために出かけて行ったのだ。

 

同じように、罪(的外れ)に支配されていた私たち。私たちの罪を負って苦しんで死なれたキリスト。信じる者に罪の赦しを与えてくださるキリスト。あなたも、キリストを慕って彼が葬られた墓にまで行くといい。古い自分は死んだだけでなくキリストとともに葬られたのだから。そこでよみがえられたキリストに出会うだろうから。

 

マグダラのマリヤは、キリストとともに死んで、忌まわしい過去とともに葬られた。もはや彼女が、その過去に生きることのないように、キリストとともに死んで葬られたのだ。

 

逆に、キリストは彼女に新しい人生をプレゼントされた。彼女が、神が与えられるいのちによって新しい歩みをするために。パウロは次のように言っている。

 

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)

 

よみがえられたキリストに、人類で最初に出会った人、マグダラのマリヤ。彼女の過去は、完全に悪霊に支配されていた。そんな彼女が選ばれた理由。それは、以前の人生がどれほど暗く、社会から見放されている者であっても、キリストは新しい人生を与えられることを明らかにするためだ!

 

キリストによって神との豊かな関係が与えられ、神に助けられて新しい歩みをするために、キリストはよみがえられた。

 

私たちも彼女と同様に、よみがえられたキリストに出会い、すべてが新しくなることを体験し、キリストとともに新しく歩むことを神は強く望んでおられる。