2018年10月7日

尊いことに使われる器

 

だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、

その人は尊いことに使われる器となります。

Ⅱテモテへの手紙、2章21節

 

あなたに、以下の二つの選択肢があったとします。①尊いことに使われる人になる、もしくは、②恥ずかしいことに使われる人になる。あなたはどちらの人になりたいでしょうか。

 

たとえば、復活の力が次のようなものであったら…。いろいろな問題があるときでも、心が休むことができる力であるなら。人間関係で悩んでいるときでも、魂に安らぎを得、喜びが溢れるような力であるなら。一歩も前に進まないような状況の中で、前に進むことができる力であるなら。きっと、あなたは復活の力が欲しいと思うはずです。

 

この手紙を書いたパウロは、復活の力を得るために以下3つを次の順番で体験して欲しいと言っています。

 

1)キリストを体験する 

2)キリストの苦しみにあずかることを体験する 

3)復活の力を体験する

 

1.キリストを体験する 

なぜ最初にキリストを体験して欲しいのか? それは、あなたの人生が上向いた時も、下向いた時でも、あなたに対するキリストの愛は変わらないことを体験して欲しいからです。そうでなければ、あなたは、自分の人生が上向いた時はキリストがあなたを愛しているけど、人生が下向いた時はあなたを愛していない、という誤解が生まれ、神の愛について自分勝手な解釈をするからです。キリストは、どんなときでもあなたを愛しています。

 

沸騰したヤカンに触ると火傷します。あなたが超幸せなときでも、絶不調なときでも、あなたの気分に関わらず、ヤカンは熱いのです。こんな話の説明で申し訳ないのですが、あなたにお伝えしたいことは、神の愛は、あなたの体調や感情の浮き沈みによって変わることはあり得ないということです。キリストは、ご自分の命を賭けるほどに、あなたを愛しておられるという事実は永遠に変わることはありません。

 

キリストを体験するとは、まさにキリストのゆえの神の愛は変化しないことを体験することです。

 

 

2.キリストの苦しみを体験する

一方で、残念なニュースがあります。それは、クリスチャンになった後でも、苦しみは存在するということです。それが現実であり、日常生活の中で起こることです。しかし、これはキリストの愛を体験した人が味わうことができる特権でもあります。苦しいことが起こったとしても、神はあなたを愛しておられることを疑わないためにも、まずキリストを体験する必要があるのです。

 

キリストは、復活の力を味わう前に、十字架で苦しみと死を体験されました。もし順風満帆の日々を過ごしていたのなら、いつまでも死ぬことがないなら、復活する必要はありません。

 

しかし、なぜキリストが苦しんだのでしょう? そして、なぜユダヤ人の宗教家たちはキリストを迫害し殺したのでしょうか?

 

パウロは、そのことについて次のように述べています。「肉で生まれたままの者は、霊で生まれた者を迫害する」(ガラテヤ4:30)つまり、神の願いに生きようとすると、まず自分の肉の欲求が反発します。それがゆえに私たちの心は苦しみを覚えるのです。

 

例えば、嫌な人を赦すとなると、自分の自然な肉の感情は反発を覚えます。たとえあなたが、その人を赦すことができたとしても、その人に敵対している人たちは、あなたのしたことを喜びません。喜ぶどころか、その人を赦したあなたが癪に障り、あなたに敵対し始めるかもしれません。

 

言い方を変えると、その苦しみとは、聖霊によってキリストに従う苦しみです。 例えば、キリストは「愛しなさい」「赦しなさい」と命じられました。キリストの命令に従うときに、私たちの肉は苦しみます。相性が悪い人を愛し、嫌いな人を赦すことを考えただけで、私たちの感情は苦しみます。一旦、神の助けを得てキリストに従うことができると、こんどは周りの人たちの肉がキリストに従順なしもべに敵対し始めるのです。

 

キリストが苦しまれたのは、父なる神の御心に従った結果もたらされたものです。キリストは、三回も「この杯を取りのけてください。」と父なる神に願われました。杯は、神の怒りを意味しています。キリストの上に神の怒りが下るのです。その怒りは本来、私たちに向けられたものでした。キリストは、私たちの罪を赦すために、神の怒りが私たちの上に下らないために、十字架ですべての罪を負われました。そのためとはいえ、ご自分の身体が激しい苦痛を体験するのですから、その体験を回避したいと願うのも無理はありません。

 

できれば苦しむことなしに復活の力だけを手に入れたいと思うのが人情でしょう。私もあなたも、そう思うことがあるはずです。

 

しかしキリストは、私たちを愛するがゆえに、父なる神の願いに答えられたのです。父なる神は、私たちをご自分の怒りから救って愛する関係に招き入れるために、代わりにキリストを、神の怒りをなだめるための供え物として遣わされました。ここに神の愛があるのです。

 

これこそが、キリストの苦しみです。神の助けを得て、キリストに従うときに体験するキリストの苦しみを体験する先に、復活の体験が待っているのです。

 

 

3.復活の力を体験する

私たちは、みな復活の力を体験したいのではないでしょうか。もし、自分の人生が死んでいるような状態であれば、誰でも復活することを願うのではないでしょうか。

 

もう一度、復習させてください。1)キリストを体験する。2)キリストの苦しみを体験する。3)キリストの復活を体験する。以上の順番に従って復活の力を体験するのです。

 

復活するための力は、私たちの内側に存在していません。その力は、神から来るのです。神は、キリストに従がうがゆえに苦しむ状態から、私たちを必ず救い出してくださいます。それこそが、日常生活における復活の力です。どのようにあなたを、苦しい状況から救い出してくださるかは、私たちには分かりません。しかし、神は必ずあなたに復活の力を体験させて救い出してくださいます。

 

あなたのために祈っています。

 

ジーザスコミュニティ国分寺

牧仕:桜井 知主夫